「……っざけるなよイエス! 何考えてるんだこのバカ!」
『てめっ、誰がバカだとこのシーレのクセに! ンなに言うんなら体渡せ、体!』
木々が鬱蒼と茂り、黒々とした影を落とす森の深く。街道からは遠く外れ、奇怪な雰囲気が漂っている。陰鬱極まるその場所を、一人の青年――シーレが持てる力の限りを尽くして疾駆していた。靡く白銀の髪が背後に追いすがるものに捕らえられそうな気がして、ちらりと振り向く。
「しばらくは渡さないって言っただろう! 誰のためだと思ってるんだ!」
『じゃあ文句言わずに走れ! 俺のせいみたいで気分が悪い!』
「正真正銘お前のせいだ!」
こっち行ったら近道なンじゃねぇの、こっち。
とか言ったのは間違いなくイエスだった!
『でもこっちが近道な感じだろうが!』
「例え近道でも、獣の群れに追いかけられるような道になんか進みたくない!」
木々の合間を縫って走る。森に響くのは一人の青年の声と足音、そして無数の獣の足音だけ。
『クソっ、もう根本的にアレだ、こんな辺鄙な所を待ち合わせ場所にしたレイリアが悪い!』
「レイリアのせいにするな! この役立たず!」
『役立たずだと!? 誰のお陰で今テメェが生きてると思ってる!』
頭の中で響く怒声と共に、一気にイエスの存在感が増した。制止する間もなく、靡いていたシーレの銀の髪が朱に染まった。体の自由が奪われ、イエスが“表”に出る。
『イエス! バカ、止めろって!』
「うるせぇ! 役立たずまで言われて黙ってられるか!」
イエスが足を止め、後方に体を向けた。視線の先には、犬によく似た黒い獣が数十匹。しかし、人のゆうに二倍はあろうかという体躯、見上げるほどの巨躯を持つ犬は存在し得ないだろう。少なくともただの野犬では。
イエスが唇の端を吊り上げた。“奥”に押し込まれたシーレには、状況を見守るほかない。
「オレを誰だと思ってやがる、下等生物どもが!」
『……アレ、お前の“姉ちゃん”の“子ども”じゃないのか?』
居丈高に叫ぶイエスはシーレの呟きに答える代わりに、魔獣の群れを見やって静かに宣言した。
「死という事実の“存在”を、“肯定”する――!」
“奥”に押し込まれながらも、シーレは大気の流れを感じた。
正確には大気の流れではなく、空間の震え。大気中に満ち満ちて、世界の事情を根本から覆す“魔法”の基となる元素“魔素”が、異世界の神――この世界の創造主たちの弟の宣言を速やかに実行するべく、流動する。
宣言は成される。
音も光もなかったが、獣の群れは一斉に倒れ伏した。のたうち、悶え、裂けた口から鋭い牙を覗かせて、泡を吹く。
異形の獣の死という事実の“存在”だけが残った。
「……ざまぁねぇ、なっ……」
『ちょっ、おいっ!?』
弱々しくも尊大な“存在”の“肯定”を司る神の台詞と共に、シーレの視界がぶれた。唐突に体が自由を取り戻し、数歩たたらを踏む。しかし違和感があって、嫌な予感と共に振り向けば、地面に膝を着いて肩で息をするイエスの姿があった。
「バカ、だから言っただろう!」
「るせー……」
異世界のものであるが故に、イエスの行動には制約が多い。この世界に彼が存在するためには“器”が必要で、シーレがそれにあたる。普段は“器”を使って“表”に出、好き勝手に動くのだが、一時的になら今のように“器”から離れることができる。
しかし“器”から離れたり、自らの世界の法――“存在”の“肯定”を実行すると、この世界に留まる力、“拘束力”が弱くなる。丁度今の状態がそれだ。
最近は“器”から離れることが多かったので、“奥”で大人しくこの世界の“拘束力”の回復を待っていたのだが。
「ていうか何分離してるんだよ! さっさと戻って……」
「いや、来る」
「来る……って……」
なにが、という言葉は飲み込まれた。
地響きが森を震わせる。
遠くからこちらに近付いてくる音は、足音だった。
「もうオレ無理だから。オマエでなんとかしてくれ」
「なんとかって……」
おどろおどろしい咆哮と共に、もともと暗い森に、濃い闇が落ちた。
差した影にシーレは振り向く。
先程の獣の2倍、つまり人間の4倍の体長の魔獣が、シーレの腕よりも太い牙を剥いていた。
「オレが“中”に戻ったら重くなる。せいぜい邪魔にならねぇようにしてるから、片付けろ」
「……片付けろ、って」
シーレが腕を振る。じゃっと音がして、袖口から銀の鎖が擦れ合いながら零れた。鎖の端についた小刀の柄を軽く握り、獣に向き合う。
背を滑る銀の髪だけを見せ、背後のイエスに静かな声で確認する。
「それは“エリニエス”が出てもいいってことだな?」
「ああ」
「……いざってときには、止めてくれ」
シーレの左耳で、ピアスが揺れた。細い鎖にちいさな夕暮れ色の石を吊るしただけの、不恰好なピアスだ。揺れる石を見つめながら、イエスは小さく、しかしきっぱりと答えた。
「オマエは、自分でちゃんと止まれる」
相棒の台詞を受け、シーレは滑るように駆け出した。
シーレの口の端に、ふっと笑みが浮かぶ。イエスの笑みと似て異なる、殺戮を楽しむ表情。靡く髪と眼前を鋭く見据える目は血の色に染まっていて、“本来”のシーレが現れたのだと知れた。
敵は獲物を一ひねりのもとに仕留めることを得手としてその巨躯を誇っているのだろうが、シーレからすれば当てやすい的に過ぎない。ただし常のシーレでは力負けしてしまうだろうから、わざわざ封じていたこの一面を引き出した。
獣がシーレに向かって、巨大な前肢を振り下ろす。しかしシーレは軽く身を引いて重い一撃をかわし跳躍、動きに合わせて下がった獣の頭部に着地した。
笑みを深くして、獣の太い首筋に小刀を突き刺す。肉を断つ感触と共に、小刀は半ば柄まで黒い体毛の中に埋まる。
獣が苦悶の声をあげて、シーレを振り落とそうと頭を大きく振った。振り落とされる前に、小刀の柄頭を蹴ってシーレは飛び降りる。更に深く埋まった小刀から伸びる鎖を軽く引き、抜けないことを確かめながら、次々に振り下ろされる前肢を避ける。
首の下を通り抜け、獣の横に出る。細かく動く小さな獲物を愚鈍な犬が見失った隙に、シーレは袖口から残る鎖を引き抜いた。鎖のもう一端にも同じような小刀が結わえられおり、シーレはそれを投げつけた。
獣めがけて、ではなく、獣を飛び越した向こう側へ。
同時に駆け出す。再び獣の首の下を通り抜け、大きく弧を描いて落ちてきた小刀の柄を掴む。ギッと音がして、獣の首に銀の鎖が巻きついた。笑みのかたちに歪んだ唇から、呟きが漏れる。
「――畜生風情が」
鎖を強く引く。
ぴんと伸び切った鎖から、鈍い感触が伝わった。それは獣の首の骨が折れた感触で、空気を震わせて断末魔の絶叫があがった。声は長く尾を引き、やがて巨躯が倒れる轟音にかき消される。
シーレは血の色の瞳で、小山のような死体を見やった。瞳には明らかに愉悦のいろが混じっている。殺戮が楽しくて仕方がないとでもいうように。
次の獲物を求めて、シーレは頭をめぐらせ――
ちゃり、とちいさな音がした。左耳にのみ吊るされたピアスだった。
「……っ」
途端に、血の色に煙っていた意識が覚醒する。また僕は呑まれそうになっていたのかと軽く頭を振った。動きに合わせて振れる長髪から、洗い流したかのように血の色が抜けていく。そのまま速やかに現実に戻り、獣の頭部に登り小刀を引き抜く。腕を軽く振って鎖を収めると、イエスへと視線を転じた。
「おつかれさん」
「……ああ」
疲れた声でシーレは答え、地面に座り込むイエスの下に歩を進める。そしてしゃがみ込み、イエスの顔を覗き込んだ。
「まだ顔色悪いぞ。さっさと……」
「じゃあ補給させてくれ」
戻れ、と言う前に、イエスが嘘くさい爽やかな笑みを浮かべた。発言の意味を察して、シーレは銀の目をぎょっと見開く。逃げようとしたが叶わず、肩を掴んで引き寄せられる。
「ちょっと待ッ……んむっ!」
イエスのよく言う“補給”とは、“器”であるシーレの“存在感”を得ることだ。“存在感”はひらたく言うと“生”であり、転じて“拘束力”に変わるのだが、その“存在感”の補給法に問題があった。イエスからすると「問題どころか大歓迎」で、シーレからすると「断固拒否するっ!」といった具合の。
「んぅっ……むーっ……!」
シーレは間近に見えるイエスの顔を睨みつける。舌入れるな、舌!と言いたくても、唇に唇を塞がれた状態では不可能だった。ちなみにイエス曰くこれは“軽い補給法”であり、“軽くない補給法”もあるらしい。考えたくもないが。
たっぷり数十秒ほど経って、イエスはようやくシーレを解放した。心なしか顔色が良くなっているのが憎らしい。よくない笑みを浮かべて、イエスは感触の残る自らの唇を舌でなぞりつつ、
「ごっそさん」
「お前ねぇ……さっさと戻ればこんなことしなくてもいいだろう!?」
「いーじゃん別に。たまには」
「あのなぁ!」
「どーでもいーんですけど、あんたたち」
唐突に、第三者の声が割り込んだ。聞き覚えがありすぎるほどある声は背後から聞こえており、シーレはぴしりと動きを止めた。しかしイエスは朗らかに「よう」と片手を挙げている。
シーレが恐る恐る振り向く。予想通り、黒髪黒目の女がしゃがみ込んで二人を見ていた。退屈極まりない、といった表情。
「待ち合わせ場所に来ないからこっちから来ちゃったわよ」
「レイリアっ……」
シーレは引きつった声で彼女の名を呼ぶ。が、声に潜む訴えを悟ったレイリアは「別にあんたたちのキスシーンなんて見慣れてるわよ」と冷え切った声で返した。イエスのお陰で、シーレがレイリアに二十年近く傾けてきた想いは音を立てて崩壊しつつある。
諸悪の根源はつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「オマエの場所指定が悪ィんだよ」
「ふうん? 人が来なくていいかと思ったんだけど? どっかの神サマはところ構わず男にちゅーしやがって下さいますから?」
「オレは別に気にしてねー――」
「もういい! さっさと戻れイエス!」
不毛な会話に終止符を打つべく、シーレは泣きたいような気分で左手を差し出した。つまらなさそうな表情で、イエスも右手をシーレの掌に重ねる。ぼうっと光が散って、イエスの姿が消えうせた。シーレの中に戻ったのだ。
「はーっ……」
「ジジくさい顔してるわよ、シーレ」
「ジジ……」
「さて、そんなことはどうでもいいとして」
シーレが自らの一言にショックを受けたことにも気付かず――もしかすると気付いていて無視したのかもしれないが、レイリアは立ち上がった。木々の隙間から見える空に目を細める。
「こっちでの用事は済んだし、さっさと戻るわよ」
「……ああ」
シーレもよろよろと立ち上がる。振り向きもせずにさっさと歩き始めるレイリアの後を力なく追いながら、自分の“中”で爆笑するイエスを殴る方法を本気で考えていた。